(2008.12.15脱稿、2009.03.17加筆修正、2009.06.22はてなダイアリー転載)
この論文について
この論文は、大阪の某文系私大生が学部4年間でまとめた卒業論文です。研究期間は、2005〜2009年のあいだの約3年間です。
資料の収集にあたっては、所属していた大学の付属図書館を基本とし、不足分については他大学に複写依頼し、それでも補えない文献は国立国会図書館を利用しました。また、補完的にインターネットや新聞記事、TVなどを活用しています。ちなみに、Wikipediaの「同人」の項目については、筆者が加筆・修正している割合が多いこともありまして、今回資料として扱っておりません。
Web上で公開するにあたり、若干フォーマットを変えておりますが、ほぼ原文どおりです。
研究でわかったことは、人と人との関係性において、(1)既存のオタク論を踏襲した点、(2)狭義の<同人>の歴史(=<同人>史)を整理した点があります。残念ながら問題点もいくつかあり、(1)社会学やメディア論をテーマにしたゼミに属していたため、歴史の記述についてはかなり割愛した点、(2)論文として構成にはほど遠い状態である点、(3)(査読者からのコメントより)なぜ<同人>文化が細分化されるといけないのかという根拠の記述が見当たらない点、などがあげられます。
なお、先行研究のレビューで原文が欲しいだとか、筆者が希望しています新書本クラスでの書籍化・出版化を(校正を含めて)受けて頂けるだとか、こちらの誤認などをアドバイスをしていただけるだとか、こちらのフォームまでご連絡ください。お誘いなども歓迎です。ただし、すべてにお返事できかねることを、あらかじめご了承頂きたく存じます。
1 はじめに
2005年の「電車男」ブームを皮切りに、「アキバ系」[妹尾,2007;森川,2003]や「萌え〜」、「メイド喫茶」[相田,2006]などといった、いわゆる「オタク文化」が注目された。そして同年より「オタク」関連のトピックがマス・メディアにおいて、露出しはじめた*1。
朝日新聞オンライン記事データーベース「聞蔵」(2008.11.10時点)で、「おたく」もしくは「オタク」と検索すると、図1に示すとおり、2005年をさかいに2倍ほど増加している*2。
図1 朝日新聞の「おたく」もしくは「オタク」に関する記事数の推移
ほかにも、テレビでは、「トリビアの泉 街で女性がからまれた時"電車男"のように助けてくれる秋葉原の男性は100人中何人」(フジテレビ、2005.8.24 O.A.)、「TVチャンピオン アキバ王選手権」(テレビ東京、2005.9.15 O.A.)、「にっぽんの現場 秋葉原年の瀬物語」(NHK総合、2005.12.27 O.A.)、「真剣10代しゃべり場 "普通"って何?」(NHKデジタル教育、2006.1.13 O.A.)などが、あげられる。
翌(2006)年には、国土交通省と文部科学省の共同で6700万円を投じ、日本の「オタク文化」をつかって観光活性化を図ることを目的とした大規模な調査*3を実施した[森川,2007:33]。これらの現象は、日本が「オタク文化」を国策として位置づけた決定打とも言えよう。つまり、既存の日本文化に「オタク文化」が組み込まれ、主従関係が逆転した。
この「オタク産業」*4の拡大とともに今注目されているのが<同人>*5である。インターネットで「同人」と検索をかけると、「同人誌」*6、「同人誌即売会」、「音系同人」、「同人ゲーム」などといったワードが、上位でヒットしてくる。すなわち、それらの大半は日本の「オタク文化」に付随していることに気づく。
「同人」の辞書的定義をみてみると、「(1)同じ人。(2)当の人。前に述べたその人。(3)同じ志の人。同好の人。なかま。(4)同門の人。」*7である。すなわち、「同人」の原義は、「同じ何かをもった人」といった意味合いでしかない。にもかかわらず、今日では非常に限定的な使われ方をしている。
これまで「オタク」に着目した先行研究は数多く蓄積されてきた[松谷,2008]が、<同人>という視座から「オタク文化」は論じられてこなかった。本稿は、<同人>の系譜をまとめ、<同人>が果たしてきた機能や効果について、考察するものである*8。まず2章では、<同人>が「オタク文化」と密接に絡んでいる事由を論じる。ならびに、人と人との関係性という視座から<同人>に着目し、「オタク」やコミックマーケット(以下コミケ)との結びつきを、<同人>史を概観しながらみていく。そのうえで3章では、<同人>文化の統合/細分化を果たすコミケのメディア的役割とその限界について検討する。さらに、細分化された<同人>を再統合するメディアの重要性について、示唆していく。
2 事実関係
さて、人と人との関係性という視点から<同人>を大雑把に捉えるなら、(1)文芸系<同人>、(2)漫画系<同人>、(3)オタク系<同人>に大別できる*9。それでは、個々人がどのようにして<同人>としての関係性をもっていったのか、先行研究をもとに歴史的に振り返ってみる。
2.1 文芸系<同人>
「文芸同人誌の歴史は明治までさかのぼり、誌や小説を中心にしたこれらの中には、アララギ派や白樺派など一派をなしたものもあった」[阿島,2004:12]と言われるように、日本でいちばん先駆的な同人誌として、1885(明治18)年に編集された『我楽多(がらくた)文庫』があげられる[福田,1966:49]。同誌をつくった<同人>は、尾崎紅葉らの文学団体・硯友社(けんゆうしゃ)である。この硯友社の成り立ちについて、福田清人は『硯友社の文学運動』において、つぎのように書いている。
「その結社(=硯友社)に基づく文学運動は、もとより一つの明らかなる文学的所信、新たなる文学観を抱いて、その共通の旗の下に集り、意識的に結合し、集団の力をもつて進んだものではない。その初めは、単に道楽的な筆のすさびに打興じた、ささやかなる分苑より次第に生長し、やがて文学者としての自覚より、社会的な認識をも得んがため、即ち文壇登場のために、箇々の力を合わせ進出しようとした出発が、内には結合されて、単なる友人関係以上のものとなり、外には彼等の進出、存在をさまたぐるものと抗争しつつ、自らの地位を確保しながら、明治文学前半期の史的展開の頁を、彼等の活動によつて厚く占めてしまつた。」[福田,1992:1-2]
福田が述べているように、硯友社の場合は、はじめ友人同士の共通の趣味としてスタートした。ところが、活動が本格化するにつれプロへの意識が芽生え、グループ内で親密な関係をしだいに形成していく。後々、硯友社にかぎらず、今日の文学を語るうえでは欠かせない著名作家が、こうした数々の<同人>から多く輩出された。
ほかにも福田は『我楽多文庫』についてつぎのように述べ、ひとつのテーマに絞らず、雑多でバラエティーなテーマをもった機関誌であったことを指摘する。
「文学——といふより筆のすさびの好きなグループが集つて、詩とか俳諧とかに偏せず、小説、戯文、詩歌、都々逸、川柳、冠句付けに至るまで、普く同好の士の種々なる作品を集めて、隔月一回之を雑誌体に、山田、尾崎両人が筆耕編集して、回覧し、その際めいめいが批評する」[福田,1992:27]
こうした雑誌が誕生した背景には、当時における印刷技術が乏しく、非常に高価であったことがあげられる[中原編,2008]。したがって、肉筆ですべての会員に会誌をまわすとなれば、ひと月を要した。この問題を解消すべく、会費(=印刷代)を月3銭から10銭へと引き上げ、年々ふくれあがる<同人>に対処していた[福田,1992:46-47]。
以上のことから、硯友社のケースにおいて考えると、ひとつの雑誌メディアに単一のテーマと括られていたわけではなく、ひじょうに編集方針がゆるやかであったことがわかる。また、複数人がそれぞれの専門領域をもって発信し、多様性があったこともうかがえる。活動が本格化しだすとプロを輩出する機関としても、<同人>は機能していた。
2.2 漫画系<同人>
とはいえ、今日では同人誌といえば、漫画・アニメ系のイメージが強いであろう。
阿島俊(=米澤嘉博)[2004]によれば、戦前にはすでに十数ものグループが漫画の同人誌を発行していたようである。戦後になると近所の友人や同級生、肉親といった身近な関係から、雑誌や大学の漫画研究会(以後漫研)を通した関係へと広がっていった。
『別冊宝島358 私をコミケにつれてって!』(宝島社、1998)によれば、昭和20年代には『漫画少年』を中心に、石ノ森章太郎や赤塚不二夫らの東日本漫画研究会がつくった肉筆の回覧誌『墨汁一滴』などが生まれた。さらに、貸本屋ブームの流れもあり、昭和30年代は劇画『影』や『街』を中心として、アマチュアによる漫画同人誌が全国に普及した[吉村編,2008]。そして、永島慎二の『漫画家残酷物語』や『COM』の登場によって、同人誌を出すことを目的とした従来の<同人>活動は、本が売れなくとも自分の表現を出す方向へと、シフトしはじめる。とはいえ、このときの同人誌もプロになるための修練の場としての性格を、依然として強くもっていた[阿島,2004:15;コミケット準備会編,1985:13]。
以上のことから漫画系<同人>は、1冊の雑誌メディアに漫画を描き、<同人>の誰もがプロを目指し、活動していたことがうかがえる*10。言い換えれば、表現技法を競い合うなかまとして、<同人>はつながりあっていた。
そのようななか、1975年に、同人誌を取引するひとつの場として、第1回目のコミケが、東京・虎ノ門の日本消防会館で開かれた。コミケは今もなお同人誌即売会の本家本元として知られ、例年8月と12月の3日間、東京ビッグサイト(正式名:東京国際展示場)で行われ、参加サークル数・約3万5千、入場者数・約55万を擁する世界最大の同人誌即売会へと成長していくことになる。
コミケは十人十色の要求に応じて、多岐にわたるジャンルを内包した一種のメディアとして機能しはじめ、常に変化しつづけてきた。その結果、コミケのジャンルコードは表2で示すとおり、漫画にはじまりアクセサリーにおけるまで、多彩な顔ぶれが集まるようになっていく。
表1 コミケ75のジャンルコード一覧
出所:C75ジャンルコード一覧(http://www.comiket.co.jp/info-c/C75/C75genre.html)
2.3 オタク系<同人>
コミケという空間が用意されたことで、1980年から82年にかけ、同人誌の会員システムは崩壊することになった[岩田,2005:49]。この背景には、同人誌の発行サイクルにあった。それまでは大学の文化祭(=年1回)に合わせて、漫研主体で動いていたのに対し、コミケ誕生後は、当時年3回(春・夏・冬休み中)開かれるにコミケに合わせることで、本の発行費を即売会で回収できるようになった。また、同人誌の在庫管理も格段にしやすくなり、少しでも趣味がちがえばいっしょにつくる必要がなくなった。
<同人>の分家・拡散とともに、1982年から84年にかけて、ほとんどの漫研は解体された[岩田,2005:50]。しかし、1人で活動するには厳しく、数人のグループを組み、発行していた。この1982年以降から、漫研から即売会中心の発行サイクルになったことで、印刷の大部数化や書き手と読み手の分離がはじまった[岩田,2005:51-52]。したがって、この時期が<同人>どうしのつながりに何がしかの変化がおとずれたことは確かである。そして、オフセット印刷の低価格化や90年代なかばに進んだパソコンの普及によって、ひとりで<同人>活動を行えるレベルになっていった。
「オタク」と呼ばれるレッテルが表出しはじめたのは1970年代ごろからであり、中森明夫が1983年に『漫画ブリッコ』(6月号)という雑誌で命名したというのが、通説である*11。大塚英志[2005]など一部の研究者は、「オタク」のコアとなる部分は戦時下に起源にあると捉えているが、とにかく「オタク」という二人称自体は70年代から徐々につかわれはじめている[難波,2007:247-251]。
ただ、1980年代末期の「M君事件」(宮崎勤による東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件)を筆頭に、「沙織事件」*12、「松文館事件」[長岡,2004]といった「有害コミック騒動」[福島,1992]、2008年の「秋葉原(通り魔)事件」などを経て、男性の「オタク」にはネガティブなイメージがつきまとってきた[七邊,2005a:233]。
一方で、「オタク=男性」という強烈なイメージに対し、元来「オタク」の大多数を占めていた「腐女子」や「やおい」といった女性の視点も、ふたたび注目されている[杉浦,2006;金田,2007;村瀬,2003]。ほかにも、2005年にヒットした『電車男』の映画やTVドラマによって、「オタク」であることが社会的ステータスにつながるような現象もあり*13、ひとつの趣味にひたむきに打ち込む「オタク」の姿が確認されている[永井,2002]。また、悪書追放運動に対しては「表現の自由」を奪われていると反論し、積極的にシンポジウム*14や署名活動*15などに取り組む「オタク」の姿も見うけられる。
したがって、現在「オタク」を論じるなら、これまで大量に蓄積されてきた先行研究のなかでは、もはや実態を捉えきれずにいる*16。また、何が「オタク」なのかといった議論もすでに限界に達し、「オタク」の終焉がおとずれたとの指摘も行われるようになった[岡田,2008;岡田・唐沢,2007]。
小括
文芸系<同人>は、当時の印刷技術・価格において、複数人で1冊の同人誌を支えていたことから、編集方針をゆるやかにせざるをえなく、年々<同人>が増え、手写による複製では追いつかなくなった。そこで、<同人>から会費を徴収することで、当時ケタちがいに高かった印刷コストの壁を乗り越え、ひじょうに多様性をもった同人誌を発行していた。
漫画系<同人>は文芸系と同様、印刷の制約は共通していたが、プロを輩出する登竜門として色濃くなっていく。また、戦後からは雑誌や漫研といったマス・メディアを通じ、<同人>を築いた。
1975年にコミケというメディアが登場したことで、同人誌の発行サイクルが短期化し、印刷にかかる費用も回収しやすくなった。結果、1982年以降、テーマがちがえば別で本をつくるようになり、従来の<同人>制が成り立たなくなった。1985年以降は『キャプテン翼』ブームの影響で<同人>の低年齢化が進み[岩田,2005:54]、コミケのジャンルコードは大幅に見直され、急激なジャンルの細分化がはじまった[コミックマーケット準備会編,2005:383]。
コミケが誕生したことで、1970年代ごろから「オタク」と呼ばれる人々が、社会的に認知された。そこで、コミケで多岐に渡ったさまざまなジャンルを統合する機能を、「オタク」という概念が担っていく。だが、年々「オタク」の定義があいまいになっていき、2005年をさかいにして世間の一般化は進んだものの、「オタク」の終焉が到来した。
つまりに、「コミケに集う人たち=オタク」ということ、言い換えれば「オタク」であることは常に何がしかの<同人>であることを意味した。
3 考察
前章では、<同人>史をオタク・コミケとのかかわりにおいて眺め、コミケは<同人>から、オタクはコミケから、それぞれ影響を受けてきたことを確認した。要するに、コミケ・オタク・<同人>の3者は密接にからみあっていた。
とりわけコミケは<同人>を集めるメディアとして、重要な役割を果たしてきた*17。佐藤卓己[2008]によれば、従前メディアの本質的機能は結合だと考えられてきたが、むしろ細分化としての効果も見逃せないと述べている。さらに、文化を細分化させるメディアの特性については十分に考察されてきたとはいえないと、佐藤は強調する。
言うまでもなく、コミケも文芸系・漫画系<同人>を統合し、ときには吸収するものの、後に細分化のメディアとして機能してきた側面がある。岩田次夫[2005]は、コミケには会場の限界があり、その制約を時間で乗り越えてきたと述べている。すなわち、コミケの開催期間を長くすることで、常に細分化したジャンルに対応し、統合機能を維持してきた。また岩田は、「近い将来にコミケット(=コミケ)が現行の冬2日制、夏3日制から、全3日制、あるいはそれよりも長い開催期間をとる可能性が高い」[岩田,2005:42-43]と指摘していたが、現実に2006年の冬開催から全3日制へとシフトした。
だが、いつまでコミケが各系<同人>の文化を統合するメディアとして機能できるかどうかといった疑問を感じなくもない。たとえば、激動するジャンルの細分化に耐えきれず、<同人>活動において必ずしもコミケを通過する必要がなくなると、将来的には考えられる。また、コミケが自身の秩序や規範を保てなくなる可能性も、十二分にある。
岡田斗司夫はオタク終焉の原因について、「共通文化というものを失ってしまった、もしくは相互理解という幻想を失ってしまった以上、オタクはもういなくなってしまったのです。」[岡田,2008:155]と述べている。とりわけ岡田の「オタク」が終焉を迎えたとの指摘を受けて、「オタク」と密接に関わってきたコミケも同様に、秩序や規範を保てず崩壊してしまうケースも想定できる。
つまり、オタクの終焉がもたらしたのは、オタクという関係性のなかでのみ維持されてきた独自の秩序や規範を保てなくなったことに帰結する。この先、コミケにおいて自明視されてきた共通文化や相互理解といったものが欠落してしまうと、オタクと同じ道をたどる可能性もある。
コミケは一般・サークルで参加する人をはじめ、印刷・製本会社、宅配会社、コンベンション施設や会場の設営・イベント運営にかかわるあらゆるスタッフを含め、全員が「参加者」であり、各関係者の「協力」が不可欠である。
霜月たかなか(=原田央男(てるお))[2008]は、第1回目のコミケを開催し、それを維持・発展させていくためには、主催者・参加サークルのお互いが補完関係にあるとの認識を「事前集会」や「反省会」を通して深めてもらおうとしたと述べている。このことからも、コミケはさまざまな人の「協力」で成立しているイベントであると言える。だからこそ、コミケにおいて、何が共有されているのかを理解しておく必要がある。
しかし、そこでの中心的存在とされてきた各サークルの<同人>たちは、コミケでいったい何を分かち合っているのだろうか。岩田[2005]や米澤[1997]によれば、一貫して「場」を共有しているという。けれども、現在の会場・東京ビッグサイトという時間や空間を、果たしてほんとうに共有していると言えるだろうか。
例年コミケは、東京ビッグサイトの全館を貸し切って開催されるが、必ずしも<同人>全員が3日間すべてに参加しておらず、コミケを断片的に利用しているに過ぎない。それに、東展示場と西展示場とのあいだに隔たりがあり(図2)、およそ200mも離れた人間と同じ空間を共有しているとは、正直感じにくい。くわえて、1日目と3日目とのあいだにはタイムラグが生じ、同じコミケといえど、ジャンルコードに従ってサークルが配置されている(表2)ため、コミケの日程やスポットごとで顔色が異なる。
図2 東京ビッグサイト周辺の地図
出所:Yahoo!地図(http://map.yahoo.co.jp/)
表2 コミケ75におけるジャンルコードのホール別配置一覧
出所:『コミケットアピール75』(コミックマーケット準備会,2008:16)
以上の点において、コミケに参加する人々が同じ空間や時間を共有しているとは、すでに言い難い。そこで、コミケというメディアを想像のうえでシェアしていると考えられる。つまり、コミケという場がもつ雰囲気を共有しているというケースである。ところが近年、後述のように、この場の雰囲気さえも共有しなくてもよい風潮もあらわれはじめていると感じる。
だからといって、コミケという枠組みが完全に消失してしまうことはなく、これからもゆるやかな集合体として存続していくと考えられる。また、コミケによって細分化されたジャンルのオンリーイベント(特定のジャンルに限定された即売会)などによって、コミケはいかなる時代も別のメディアによって補完され、維持されるだろう。
もとをたどれば、オタクやコミケを構成している集団の最小単位は<同人>だといえる。要するに、オタクやコミケというレッテルを取っ払うと、文芸系や漫画系などといった<同人>に展開できる。
そこで今後は、再びオタクやコミケを通さない<同人>へと回帰すると考える。したがって、コミケというメディアを介さず、オタクか否かわからない<同人>が登場すると考える(図3参照)。本稿ではこの<同人>を「独立系<同人>」と呼ぶことにする。
図3 <同人>の系譜と「オタク文化」とを重ね合わせたイメージ図
独立系<同人>の定義は、かんたんに言えば"親"の有無である。たとえば、漫画系<同人>には手塚治虫や石ノ森章太郎、赤塚不二夫などが活躍し、オタク系<同人>には米澤嘉博や宅八郎、岡田斗司夫などが先陣を切った。しかし、オタク終焉後は、そういったオタクの世界を熟知し教えてくれる先輩的存在の必要性が問われなくなった。岡田の言う「中心概念の不在」[岡田,2008:148-150]は、もしやこのことではないかと考える。
さらに岡田は、「君が自分で感じたことを、自分で感じたまま楽しめばいい。自分の気持ちを大切にするしかないのだから。」[岡田,2008:189]と述べ、これを「自分の気持ち至上主義」[岡田,2008:163-165]と名付けている。しかし「自分の気持ち至上主義」は、社会学でいう「意図せざる結果」が生じる可能性がある。個人がその領域で良かれと思ってやっていることが、<同人>社会に必ずしも好ましい結果をもたらすとは限らない。岡田も指摘するように、「自分の気持ち至上主義」の蔓延、つまり<同人>文化が細分化の一途をたどるばかりでは、既存の<同人>文化が成り立たなくなる可能性がある。
また岡田は、オタクの終焉を前提として、「この作品では同意見だけど、別の作品では全然、話が合わないという事態が、常に発生するだろう。それでも、君は、発信し続けるしかない。同時に、まわりで発信している小さな声にも、きちんと耳を傾けよう。そして、その都度その都度、賛同者を探すのだ。」[岡田,2008:189]と、オタクにはあったであろう要素を裏返して述べているように、従前オタク界では "あたりまえ"とされてきた暗黙のルールを、新たな「オタク」も無意識のうちに身につけていたが、近年の新規参入者は自分の気持ちを最優先するトレンドがあると読みとれる。
そこで、今後においては、独立系<同人>を統合できる、ゆるやかな統合機能をもったメディアが貴重な存在になってくると考える。とりわけコミケは、さまざまな要因で細分化された<同人>文化を、ふたたび統合するメディアとして、ますます重要な位置づけをされていくと思われる。
つまり、「オタク」の一般大衆化ないしグローカル化によって、「オタク」の中心概念であった共通文化や相互理解といった秩序や規範が失われ、新生の「オタク」、換言すると一部のオタク系や独立系<同人>に至っては、自分自身が「いい」と感じた領域のみ楽しむようになった。
しかしながら、2章でもふれたとおり、文芸系や漫画系、初期のオタク系<同人>にかんしては、<同人>界で独自に設けられた規範を、知らず知らずに吸収していたと思われる。それに、たとえ同じサークル内であったとしても、自分とはかかわりのない多様なジャンルにも首をつっこみ切磋琢磨し合う場をもっていた。すなわち、「おたがいが嗜好する領域を知り、批評し、競い合う」という潜在的機能が<同人>本来にはあった。この潜在的機能がある種の「意図せざる結果」をもたらし、「オタク文化」の相互理解を進め、「強い紐帯」を得たのだと考える。
けれども、「自分の気持ち至上主義」が広まる後期のオタク系や独立系<同人>は、すでにひとりでも<同人>活動ができうる環境が整っており、先で述べた「強い紐帯」や「潜在的な機能」を必要としなくなったように感じる。同人本来の潜在的機能を再可動させるためには、<同人>文化を統合するメディアが必要であり、その機能をコミケがひきつづき果たしていくだろう。
そのような事態に陥った最たる原因は、極端に言うと、「かつては<同人>界で誰もが"あたりまえ"にやっていたことができない(もしくはやろうとしない)人があまりにも多く増えた」ことに、結論としては落ち着くにちがいない。
とはいうものの、<同人>界が不安定な状況に追い込まれている原因を、すべて新手に責任をなすりつけようとするのではなく、同じなかまとしていっしょに<同人>文化を考えていくスタンスこそが、<同人>が果たすべき本質ではないかと思う。
以上、3章の考察において論じてきたことは、現在進行形の事象であり、どのような要素がからみあって生じた問題であるか明確に断言できず、具体的な打開策もまだまだ提示できない状況にある。したがって、今後の課題としては、これからの<同人>の動向に目くばりをしながら、関連する議論に対しては、慎重かつていねいにハンドリングしていきたい。
4 おわりに
近い将来、何がオタク的なのかわからなくなり、情報発信の場がコミケである必要がなくなり、そして<同人>を結成しなくてもいい。そのような事態が、いつ起きてもおかしくないし、すでに目下では起こっているのかもしれない。
将来、<同人>文化で自明であることも、ある程度ガイドラインとして明文化していき、<同人>としての教養がもてるようある種の"義務"として、他の<同人>に対しても強いていく筋書きも想定できる。そうなるまえに、<同人>界の独自規範を守っていくことを、自発的かつ自律的に行ってほしいと、こいねがう。本稿において述べてきたことは、現代社会に対しても同じようにあてはめられるような気がしてならない。
※本文中の旧字は常用漢字に改めた。
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- 森川嘉一郎,2007,「オタク文化の現在(1)「日本」と「アニメ」の関係」『ちくま』432,pp.32-35.
- 吉村和真編,2008,『マンガの教科書:マンガの歴史がわかる60話』臨川書店.
- 米澤嘉博,1997,「コミケ文化の20年:流行を先取してきたコミックマ-ケット」中央公論新社編『中央公論』112(10),pp.276-283.
- 米澤嘉博,2008,『戦後SFマンガ史』筑摩書房(ちくま文庫).
*1:東浩紀[2001]は、厳密なオタクの定義・分類は不可能だと述べたうえで、「オタク文化」を「オタク"系"文化」と曖昧な表現にしている。筆者もこの考えに準拠しているが、本稿では便宜上「オタク系文化」を「オタク文化」と統一した。また「オタク」の定義も研究者によって表記が異なる(大塚[2004:3-5]など)が、「オタク」と統一した。
*2:検索結果には直接オタク文化と関係のないトピックも多く含まれているが、マス・メディアにおいて露出したという点では問題ないと考える。
*3:「日本のアニメを活用した国際観光交流等の拡大による地域活性化調査」(http://www.mlit.go.jp/kokudokeikaku/souhatu/h18seika/01anime/01anime.html,2008.10.30)参照。
*4:『2008オタク産業白書』(メディアクリエイト,2007)など。
*5:<同人>は複合的な概念であるがゆえに、本稿では<同人>の定義をいったん保留にし、人と人との関係性という観点から、論じている。そのため、辞書的な定義でないものに山カッコを付けた<同人>と表記している。
*6:野村総合研究所オタク市場予測チーム[2005]は「同好の士が集まり、資金と作品を持ち寄って発行される書誌」と補足説明している。また大澤真幸[1995]は、「同一の情報をもっていることの確認や、あるいはその同種の情報をより先鋭に細部にいたるまで究めていることの自己顕示のための媒体として読まれ、またつくられたもの」と定義している。
*7:第2版『日本国語大辞典』(小学館,2000-2002)参照。
*8:オタク」の先行研究に目立つカルチュラル・スタディーズの流れをふんだスチュアート・ホールのエンコーディング/デコーディング(=コード化/脱コード化)理論をベースとしたマス・コミュニケーション研究のオーディエンス論[金田,2007;永井,2002;七邊,2005a;村瀬,2003]や、「<同人>という共通文化ありきでなく、成員としての帰属意識[七邊,2005b]やメディア・テクストの読者自身による実践[石田,2007]によって、集団としての<同人>が形成される」という<同人>の形成要因にかんする議論もあるが、本稿のテーマからそれるため、ふれなかった。また、<同人>の実体データーの提示にかんしても、紙面の都合上、割愛した。
*9:文芸系<同人>は本稿において漫画系<同人>の前段階と位置づけている。
*10:SFもコミケに多大な影響を与えているが、米澤嘉博が「ぼく個人のSF体験とマンガ体験が完全に重なっている」[米澤,2008:399]と述べていることから、本稿では漫画系<同人>としてカテゴライズしている。
*11:『漫画ブリッコ』の該当記事の冒頭は、コミケの話題からはじまっていることから、いかに中森がコミケから影響を受けたかが、うかがえる。
*14:2007年5月19日、「同人誌と表現を考えるシンポジウム」が、豊島公会堂にて開催された。パネラーとして、同人誌に関わる印刷会社、専門書店、即売会の各界関係者らが参加した。また有識者として伊藤剛、斉藤環、藤本由香里らが出席した。
*15:「創作物の規制/単純所持規制に反対する請願署名市民有志」(http://www.savemanga.com/,2008.12.12)参照。
*16:オタク論の流れは岡田[2008:50-86]や斉藤[2006:22-32]などを参照されたい。